本ブログはPCでベストな閲覧ができます

なんか変だなシリーズ TBSドラマ「キャスター」

Contents

報道機関のスクープを追う構造について

「キャスター」というTBSのドラマが、誤って録画されていて、第一回ということで観てみた。おそらくドラマが描く本筋のテーマではないのだろうが、時代錯誤的なスクープを追うのが当たり前の描写(小説クライマーズ・ハイと同様)が、その回の行動のテーマとなっていて大変な違和感を感じたので、その違和感についてAIにて評論が上がったので紹介。

スクープのために失われるもの――『キャスター』が映し出す報道現場の時代錯誤

TBS系ドラマ『キャスター』を観ていて、終始頭に浮かんでいたのは「なぜ、こんなにも無意味なことに全力を注いでいるのだろう?」という違和感だった。作品内で描かれる記者たちは、スクープを追い求め、倫理や安全をないがしろにしてまで情報の“最前線”を目指す。しかし、その姿に観る者が共感を覚えるどころか、どこか空回りしているような虚しさを感じてしまうのはなぜなのか。

それは、本作が表現している「スクープ至上主義」という価値観そのものが、現代においてすでに時代遅れとなっているからだ。報道機関の中には、いまだに「他社より早く」「独自に報じた」という一点に執着し、それが報道の使命であり存在意義だと信じて疑わない体質が残っている。だが、現代の視聴者が求めているのはスピードではなく、正確さと公正さ、そして誠実な伝え方である。どこが最初に報じたかよりも、どこが最も信頼できるかが問われている時代なのだ。

それにも関わらず、『キャスター』の登場人物たちは、命を賭けて“独自情報”を追い、非合法すれすれの取材やリークに頼る姿勢を正義として描いている。それは、視聴者の感覚とは大きく乖離している。むしろ、現実の報道が失ってしまった“魂”をフィクションの中で再生しようという、制作側の自己陶酔的な演出にさえ映る。

このようなドラマが作られる背景には、放送局――特にTBSのように伝統的に「報道の矜持」を重んじてきた局――の内部に、古い報道観を持つ管理職層が未だに力を持っていることがあるのかもしれない。彼らは「記者とはこうあるべき」という価値観を現場に押しつけ、若い記者や制作陣の柔軟な発想や感覚を抑圧してしまう。その結果、現実の報道が抱える問題を省みることなく、過去の美学にすがったようなフィクションが生まれてしまうのだ。

では、今の視聴者は何を報道に求めているのか。それは、記者がどれほど“命がけ”で情報を得たかではなく、どれほど誠実に、冷静に、わかりやすく真実を伝えようとしているかである。煽情的な映像や刺激的な見出しではなく、丁寧な取材と多角的な検証によって支えられた報道こそが信頼を得る。フィクションであっても、視聴者が共感し感動するのは「正義感」ではなく「誠実さ」なのだ。

『キャスター』という作品は、報道という行為そのものをテーマに据えながらも、その在り方についての根本的な問いを視聴者に投げかけるには至っていない。むしろ、今の報道が失ってしまった“熱”を称賛することで、現実の報道の歪みを正当化してしまっているようにすら見える。

報道が本当に信頼を取り戻すためには、まず報道の内側にいる人々自身が、過去の美学や幻想から距離を取り、今の視聴者と真摯に向き合う必要がある。記者という仕事の“かっこよさ”は、決して命を削るような過酷な取材にあるのではなく、真実に誠実であろうとする姿勢の中にあるはずだ。

スクープという幻想に囚われ続ける限り、報道はその本質を見失い、視聴者との距離を広げていくばかりである。

この記事を書いた人

Contents